漫才復活

なぜM-1は始まったのか?

作家谷 良一

皆さんは「M‐1」をご存じでしょうか。「M‐1」は2001年に創設された若手漫才師のコンテストです。

現在の出場資格は「結成15年以内」ですが、最初は「結成10年以内」でした。

これは、「10年続けても芽が出ないなら、見切りを付けて他の道に進んだほうが本人にとって幸せなのでは?」という、企画に関わった漫才師の島田紳助さんの考えがあったからです。

「優勝賞金1000万円」「決勝戦は全国ネットのゴールデン枠で生放送」「誰でも参加OK」など、当時としては異例尽くしの大規模な漫才コンテストでした。

今では、「M‐1」の優勝者が決まるとインターネットのニュースで速報が流れ、出演依頼が殺到する大会になりました。

「視聴率、話題性、影響力を総合して考えると、現在の『M‐1』ほどの成果をあげているお笑い賞レース番組はテレビの歴史上存在しない」と言ってくれる評論家の方もいるほどです。

そんな「M‐1」ですが、現在に至るまでの道のりはとても険しいものでした。今日はそんなお話をしたいと思います。

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2001年、吉本興業で制作営業総務室長をしていた私は、木村政雄常務に呼び出され、「漫才プロジェクトをやりなさい」と言われました。「漫才を立て直し、もう一度漫才ブームを起こせ」という指令です。

でも当時は、関西ですら漫才番組はなく、漫才はすっかり忘れられた存在になっていました。

当時吉本には、「なんばグランド花月」と「ベースよしもと」という二つの劇場がありました。

私はまず、「なんばグランド花月」に行きました。そこでは20年前からの古いネタをずっとやり続けるベテラン漫才師もいました。観客は少なく、活気もありませんでした。

「ベースよしもと」にも行きました。こちらは若手芸人中心で、若い女の子たちがたくさん観に来ていて活気がありました。

正直、面白かった。中川家など数組の漫才師はすごく良い漫才をしていました。

その様子を観ながら、「この熱意のある若い芽を活かせばプロジェクトは何とかなる」と思いました。

その後は、ポスターを作ったりイベントを開催したりしました。でも大きな手応えはなく、「これでは漫才ブームは無理」だと思いました。

そんな失望感に襲われた時、思い出したのが間寛平(はざま・かんぺい)さんでした。



谷 良一

作家

【たに りょういち】1981年京都大学文学部を卒業し、吉本興業に入社。間寛平さんなどのマネージャー、劇場支配人やテレビ番組プロデューサーを経て、2001年に漫才コンテスト「M-1グランプリ」を創設。10年まで同イベントプロデューサーを務める。16年から20年、吉本興業ホールディングス取締役。23年11月、『M-1はじめました。』(東洋経済新報社)を上梓。