逆境がくれた光

みんな精いっぱい生きている

まごころ日和マッサージ代表/盲目の講演家野元和明

◯5歳で養護施設へ

僕は1971年、目の見えない子どもとして生まれました。今は、鍼灸・マッサージの施術を行いつつ、講演活動なども行っています。大阪生まれ大阪育ちなので、たまに大阪弁が出てくるかもしれまへんで(笑)。

さて、今日はそんな僕のこれまでの経験と、そこから学んだことについてお話しします。

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僕は全盲で生を受けたわけですが、困難はそれだけではありませんでした。家庭環境もとても悪かったのです。

母はいつも台所で何か作業をしていましたが、あまり笑うこともなく、暗いイメージの人でした。

父は昼に仕事に行っていたのかどうか分かりませんが、夜になると毎晩お酒を飲んで帰ってきて、大声を出して暴れたり、母を殴ったりしていました。

僕はそんな様子を感じながら部屋の隅で震えていました。

母は当時二十代半ばです。そんな状況で2人の子どもを世話しないといけませんでした。さらに、そのうちの1人は目が見えていないのです。

母は鹿児島出身だったので、近くに頼れる兄弟などもいなかったことでしょう。孤独で、本当に苦しかっただろうなと思います。

たまりかねた母は、妹を連れて田舎に帰ることを決意します。その時に僕を養護施設に預けました。

こうして僕は5歳から17歳まで養護施設のお世話になりました。

子どもには事情が分かりませんから、小学生の時は「寂しいよ、お母さんに会いたいよ」と泣いていました。
中学生ぐらいになるとそれが憎しみに変わりました。「目の見えない僕が邪魔だったから、施設に放り込んだのだろう」と考えるようになったのです。

幼稚園での講演

◯優しい気持ちになれる言葉

ところで皆さんには赦せない人、腹の立つ人はいますか?

僕は長い間、両親を赦すことができませんでした。それに以前は気が短くて、いろんなことに腹を立てていました。昔からの友だちは「あいつは気が短かった。ハリネズミのようにツンツンしていた」なんて、好き勝手なことを言います(笑)。

そんな僕が、ある言葉に出会って変わりました。それが「精いっぱい」です。

母が僕を施設に預けたのは50年ほど前のことになります。「シングルマザー」という言葉さえない時代でした。

今よりずっと困難は大きかったはずです。そんな状況で、母なりに僕や妹のことを精いっぱい考えたのでしょう。その結果、僕を施設に託したのです。

そう思えたら、気持ちがスッと楽になりました。今では自分を産んでくれた母に感謝の思いでいっぱいです。そして、いろんなことに気持ちが荒立つこともなくなりました。

僕の母だけでなく、誰もが、その時々を精いっぱいに生きているんです。その結果、うまくいかなかったり人を傷つけてしまったりすることもあります。

子育てなんてその連続でしょう。毎日手探りで「わが子のために」と子育てをしながら、時には「いい加減にしなさい!」と子どもに厳しく当たってしまうこともあります。でもそれは精いっぱい頑張っている証拠ですよね。

そういうふうに考えると、他者に対しても自分自身に対しても寛容になれるんです。
日常生活のふとした瞬間にも、この「精いっぱい」という言葉を思い出してみてください。

例えば、買い物をしていて「あの店員さん愛想悪いな」と感じたら、「もしかしたら疲れているのかもしれない。それでも精いっぱい仕事をしているんだろうな」と考えるわけです。そうすれば、自然と穏やかな気持ちでいられますよ。



野元和明

まごころ日和マッサージ代表/盲目の講演家

【のもと かずあき】盲児童養護施設で育つ。2008年「自分探しの1年」と銘打って全国行脚。翌年、「まごころ日和マッサージ」をオープン。講演活動と並んで全国で各種イベントを主催。著書『人生はネタ作り』(Amazonにて発売)

HP http://magokorobiyori.com/

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